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東京地方裁判所 昭和33年(ワ)8481号 判決

原告 東京都渋谷区

被告 行木勇

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

原告指定代理人は、「被告は原告に対し金二〇万円及び之に対する昭和二六年七月二日以降右完済に至るまで年五分の割合による金員を支払へ。」との判決及び仮執行の宣言を求め、その請求の原因として

「(一) 原告は地方自治法第一条の二第三項及び同法第二八一条第一項に基く特別地方公共団体たる東京都の特別区である。

(二) 被告は、

(イ)  同法施行令第二一〇条により都知事から区長の命を受け事務に従事すべき職員として配属され、

(ロ)  同法第一七一条に所謂収入役の命を受けて出納事務を掌るべき出納員として

(ハ)  昭和二三年二月六日から同二六年一一月二七日まで収入役室出納係長の職にあり、

(ニ)  昭和二六年一一月二七日地方公務員法第二八条第二項第二号により休職を命ぜられたものである。

(三) 被告は昭和二六年六月一一日頃訴外福岡建設工業株式会社に対する工事請負金の内金なりと称して個人的に他から依頼を受けて保管していた広尾中学校用地移転保証金中より現金二〇万円を原告のため支出したが、同年七月二日その欠損を補填するため正規の手続による事なく原告の雑部金から金二〇万円を支出した。

(四) 原告としては、当時右会社に金二〇万円を支払ふべき債務を有して居なかつたのであるから右雑部金からの不当支出により同額の損害を蒙つた。

(五) よつて被告の故意又は少くとも過失により原告に加えた不法行為の損害賠償として、前記二〇万円及び之に対する右不法行為の日たる昭和二六年七月二日以降その完済に至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求めるため本訴請求に及んだ。」

と陳述し、被告の答弁に対しては、

「(一) 被告は、原告区の出納員乃至出納係長として自己専属の特別権限を有せず、収入役の指揮命令によりその事務に従事すべきもので、金銭出納については、地方自治法施行令第一七三条に基く会計事務規則(甲第一号証)の定める手続を遵守することを義務づけられて居る。

(二) 而して右事務規則によれば、収入役が区長の支出命令書を受けた時は区金庫に対して支払通知書を交付して、債主をして現金を受領せしめる事になつて居る。(第二二条第一項)

(三) 然るに被告は、右の如き手続を知りながら、或いは出納職員として当然知るべきであるのに拘らず之を怠り、支出命令書による区長の正規の命令を受ける事なく、収入役の発すべき支払通知書を偽造し、区金庫から不当に金二〇万円を支出したものである。」

と述べ、更に

「右現金の保管責任者たる収入役に対しては、当時右の如き不当支出を収入役が察知し得る状態になく、被告が故意にこの行為を隠蔽していた事、及び昭和一五年八月以降同三三年九月まで終始一貫して渋谷区会計担当職員として勤務し二〇数年間に於て特段の過誤なく勤務して居た被告に対し収入役が通常に於ける正常な注意力を発揮して居たとしても、故意になされた不当支出を発見し得なかつた事も止むを得ないと云う事を根拠として、渋谷区長は収入役に於て善良な管理者としての注意を怠らなかつたと認定し、地方自治法第二四四条の二の適用を排除した。

しかし之が為直ちに前記二〇万円を欠損とする事は公会計上不可能であるのみならず、収入と支出が必らず見合いとなつて居る雑部金の性質上、欠損と云う事はあり得ないので、本訴を提起した次第である。」

と附陳した。〈立証省略〉

被告訴訟代理人は請求棄却の判決を求め、答弁として、

「(一) 原告がその主張の如き特別地方公共団体である事及び被告が原告主張の如き職にあり、現に休職中である事は認める。

(二) 被告が原告主張の如く、区の公金二〇万円を支出した事は認めるが、右支出は何等不当支出ではない。即ち

(イ)  被告は昭和二六年六月一一日当時の渋谷区長佐藤健造から本件請負代金内金の支出を命ぜられたので該命令に忠実に従つたに過ぎない。(地方公務員法第三二条参照)

(ロ)  被告は昭和二三年二月一二日以降原告区の収入役代理に任命され、収入役に差支その他事故がある時は収入支出に関する事務の執行をなし得るものであり、本件支出が非難さるべき筋合はない。

(ハ)  又本件二〇万円は原告区が訴外福岡建設に対して支払うべき区立松濤中学校第一期工事の残土運搬費金四七万円の内金であり、従つて原告は何等損害を蒙つて居ない。

(三) よつて原告の請求は失当である。」

と述べた。〈立証省略〉

理由

(一)  原告が東京都の特別区であり、被告が原告主張の如き地位にある事及び、昭和二六年七月二日被告が東京都渋谷区会計事務規則に定められた正規の手続による事なく原告の雑部金から金二〇万円を支出した事は当事者間に争いがない。

(二)  原告は、被告の右不法行為により金二〇万円の損害を蒙つたのでその賠償を求めると主張するから、その点につき検討して見ると、

(イ)  凡そ公務員がその職務に関し或る行為をなした事により第三者又は国若くは公共団体に対して損害を発生せしめた場合には、之を「職務上の過失」と「個人的過失」とに分ち、後者に関してのみ個人的に不法行為による損害賠償の責任を負うべき事は既に確立された一般原則である。

(ロ)  何となれば、公務員が自己の「個人的過失」に基き損害を発生せしめた場合には、当該公務員の行為は職務の執行に仮託した、或はそれと競合する個人的(私人的)行為であり、その損害につき個人的に不法行為による損害賠償責任を負うべきものであるが、公務員が「職務上の過失」に基き損害を発生せしめた場合には、当該公務員の属する行政機関自身の過失ある行政行為(もしくは行政上の行為)があるだけであつて、その他に民法上の不法行為の存在を認め、その公務員個人の責任を追求する事は許されないからである。

(ハ)  此のような区別が認められる根拠は、公法私法の適用領域の弁別もさることながら、さらに行政の木質に根ざした実際的必要性即ち公益上の理由に基くものである。公務員の責任の外に、さらに無制限にこれと競合して個人としての私法上の損害賠償責任の存在を肯認することはその絶えざる威嚇の下に公務員を萎縮させて、彼からその凡ゆる自発性を剥奪するおそれがあり、合理的根拠あるものはなし得ない。公務員がなした「職務上の過失」は、凡そ彼が奉仕する行政機関に於て最終的にその責任を負うべきもので、此の意味に於て、行政機関はその支配下に属する全ての公務員の職務上の過失を吸収するものと解すべきである。

(ニ)  然らば、かゝる公務員の「職務上の過失」と「個人的過失」は如何に区別されるべきであろうか。その区別の根拠として考慮されるのは国家賠償法第一条第二項である。即ち、国又は公共団体の公務員に対する求償権を「故意又は重大な過失」に限定して居る前記法条の法意に鑑み、且つ又、軽過失は公務員の職務上往々免る能はざる事実に照して考え、公務員の故意又は重大なる過失により発生した損害に関しては之を公務員の「個人的過失」に基くものとして、個人的に不法行為による損害賠償の責に任ぜしむべきものであるが、その軽過失により生起した損害に就ては、その「職務上の過失」によるものとして、その個人的賠償責任を追求し得ないものと解すべきである。

(三)  今之を本件に就て見るに

(イ)  被告が東京都渋谷区会計事務規則(甲第一号証)に定められた正規の手続による事なく、雑部金から金二〇万円を支出した事は被告の自認するところで、かくの如き行為は成立に争なき甲第五号証に於て被告自ら認めて居る如く、「事務手続上においては誠に軽卒」である事には議論の余地がないけれども、

(ロ)  証人堀内学、同佐藤健造、同小野勘六の各証言及び被告本人尋問の結果を綜合すれば、昭和二六年当時渋谷区は区立松濤中学新築工事を訴外福岡建設に請負わせて居たところ、第一期工事終了後予想外に多量の残土が堆積して第二期工事を進行せしめ得ない状態となり、為に工事が遅延した(しかも当時の経済情勢は工事遅延により多額不測の出費増加が予想されるものであつた)ので、此の点を区議会に於て攻撃された佐藤区長は、自ら現場を視察した結果経費をかけても福岡建設をして至急前記残土を他へ運搬せしめることによつて、残工事を速やかに開始完了させる外はないと判断して、福岡建設に残土の運搬を命ずると共に、被告にその運搬代金支払方を命じ、被告は之に従つて原告が福岡建設に対し右代金の支払義務を有するものであり、支出関係の諸手続は後刻直ちに予算措置その他を得て正規合式のものに補正追完されるものと信じそれまでの便法として一時雑部金から右金二〇万円の支払をなしたものである事が認められる。右認定に反する甲第七号証の一及び三の各供述記載は前掲各供述に照して措信しない。

(四)  勿論区長の口頭による命令があつた事のみでは、直ちに被告のなした行為の違法性は阻却されないけれども、

(イ)  区役所の一吏員に過ぎない被告に対して前記状況下において区長の命令に対しその不合式の故をもつて抗拒する事を要求するのは難きを強うるうらみがあるのみならず、

(ロ)  証人堀内学、同小松崎信の各証言によれば、被告の行為は書類が不備であるのに雑部金を一部流用したと云う点に於てその支払方法が不適当であつたと云うに過ぎず当時収入役等も残土運搬をなした福岡建設に対し原告から支出をなすべきは当然と考えていたというのであり、

(ハ)  成立に争なき甲第五号証、同第一一号証の一、乙第五、第七号証の各記載並びに証人堀内学、及び被告本人の各供述を綜合すれば右のような後日の補正追完を予想して立替払をなす事は従前から屡々行われて居た事で、

(ニ)  而も、被告が右立替払をなした翌日直ちに収入役にその旨を報告して収入役も諒承して居る事は堀内証人及び被告本人の各供述に明らかであるから、

(ホ)  結局以上諸般の事実を綜合する時は、被告がその職務としてなした本件雑部金の支出は被告の故意又は重大な過失に基くものとは到底認め難く、従つて叙上説示する所により、被告に民法上の不法行為に基く損害賠償責任ありとする原告の本訴請求は爾余の判断をまたず失当として棄却を免れない。

(五)  よつて訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して主文の通り判決する。

(裁判官 北村良一 後藤静思 三井哲夫)

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